ミシン

ミシンは、一八六○(万延元)年、ジョン万次郎が日本へ持ち帰ったのが始まりといいますが、それ以前の一八五三(嘉永六)年に、黒船来訪の折ハリスが徳川家定夫人に献上したということです。私の記憶にあるミシンは、一九二八(昭和三)年に母がシンガーミシンを二百円で買って、使い方指導のために洋裁の先生が時折うちへみえたことです。母は衿のひん曲がったブラウスを縫い、私はそれを着て小学校へ通ったものです。同じようにクラスメートの美代子さんも、大きな固い衿のついたお母さまお手製のブラウスを着て、その衿も左右不揃いでしたっけ。美代子さんのお母さまは百二歳になる今も熊本でお元気、美しいおばあさまです。昭和のはじめの世田谷。小学校では、一クラス一人か二人はきものにはかま、そのほかきんしやは大半セーラー服で、四大節(元旦、紀元節、天長節、明治節)には、半分くらいは錦紗のきものにはかま姿でした。このころから、ポッボッ家庭にミシンが入ったようです。シンガーミシンの日本進出は、正式には一九三三(昭和八)年となっています。うちのミシンは、はじめは手回しでしたが間もなく足踏みになりました。その後、母が近所の人の内職用にミシンを貸したところ、その人の内職が本職になり、いろいろと子供の耳に入れたくないことが起こったあげく、とうとう返ってきませんでした。

ミシンは嫁入り道具

"私が学校で必要になった一九三八(昭和十三)年ころは、ミシンは入手難、それでもやっと蛇の目ミシン、これも当時二百円で求めました。このミシンは、糸の調子が悪いなどでしたが、もの不足のころにモンペを縫っ たり大働きをしました。そして、一九四五(昭和二十)年五月の戦災で真っ赤な鉄のかたまりと化し、それでも大事に拾って疎開先まで持ち歩きました。やがて一九四七(昭和二十二)年、私が結婚するとき御徒町の怪しげな店に頼んで修理してもらい、それが唯一の嫁入り荷物で結婚しました。もともと、戦時中の粗製品、それが大火で焼けたのですから、まずは、音と響きがものすごく、「西川さんば、ミシンば使うちよりますごたーあっとですたい」と五十メートル先の人までいうほどでしたが、実に十六年も頑張ってくれました。一九六三(昭和三八)年に、電動ミシンがはやりだし、近所のミシン屋で買い替えをすすめられ、三菱ミシンを三万円で求めました。もう既製服時代に入っていましたし、手作りの服なんか子供たちも着てくれなくなったので、重いばかりで活躍しませんでした。これは、アールヌーボーの美しいデザインで、白洋舎の資料館(現在大田区)へもらっていただきました。 "